人生長く生きて来た大先輩が
若い私達に人として引き継いで欲しい考え方や想いを伝える
その時のお互いのことなんかを独り言としてダラダラ纏めてみます。
私達若者の気軽な(悪く言えば軽はずみな)考え方や気持ち。
それと
様々な体験と経験でもって生き抜いてきた人生の大先輩が持っている想い。
それは当然、大きな差がある。
その大きな差を、数分や数時間話すだけで埋まることなんて無理に近い。
しかし、同じ時間かけて同じ経験をさせるわけにはいかないので
話して伝えるしか方法がない。
だから話すことで伝えようとするけれど
伝えようとする先輩方は若い人たち(先輩から見る若造ども)にうまく伝えなければ
若い私達は「うるさいなー」「古臭いこというなー」「なんやねん?」となり
結果、煙たがられ嫌がられる。
若者が理解したような態度をうまく取り繕っても
おそらく長年生きて来た先輩はそんな態度も表情も声色も見抜いてる。
しかも、その話が痛いところを突かれる話だったり
長時間だったらさすがの若者も本性が見え隠れしてくる。
「なんでわからないのか?」「なんでそんなこと言うのか(するのか)?」
「なんで理解してくれないのか?」「なんでわかってくれないのか?」
そんなことでお互いが詰めだすと(所謂、自己主張ばかりになると)
お互いの心の距離は益々広がり、挙句に埋まらない大きな壁になってしまう。
わからない人(知らない人)に、わかってもらえるように「うまく伝える」
これが大事だとわかっていながら「うまく伝える」その方法は
選択候補から吟味して選ばれているのではなく
経験からくる憶測だけで動いてしまっていることが大半。(あえて言えばこれも軽はずみ)
いくら論理的であってもその論理は感情が動いたことからうまれていて
感情が伴わない論議はない。
この時全く無駄な時間が開始されてしまうことになり
無ければよかったかのような人間関係に変化することがある。
人に伝えようとするとき
落ち着いて話し合いの場を持ち(思ったそのときではなく後日改めてそのためだけに会う)
決して相手を卑下したり責めたり説教するわけではなく
自分の思いを丁寧に順序良く伝える。
例えば仕事ではできるけど、近しい人にはしていないなどの言い訳を抜きに
これを計画的にできる人は、私に言わせれば尊敬するべきかなりの達人。
日ごろの生き方自体が、重要クライアントへ挑むプレゼンテーションのように
ぶれることのないシナリオが決まっていて
何十通りものif文を網羅するだけの回答のパターン用意して挑む。
まず、聞いてもらい伝わる機会を作るには
聞き手の反抗心や猜疑心を取り除かなければいけないことが大前提なので
その能力も必要と言うことになるから
その達人は、色んな能力に長けていて、相当「賢い」と思う。
または、恐怖心を与えないといえば嘘になる、勢いのある言い方で伝えようとする方法もある。
これは世間一般に「感情的」と言うんだけれど
それは感情的に見せようと思う計画性がある芝居を含むものかもしれない。
「怒る」と「叱る」の違いでいうと
どちらかというとこれも「叱る」の部類に入ると理解している中で言えば
そのやり方は決して否定できるものではなく
時にそれが最も影響力があり即効性の高い効果を生むこともある。
単純に「芝居」がうまくいけば効果を発揮するのではなく
それは、伝え手と聞き手の人間関係が大きく左右する。
聞き手と伝え手の間に、絶対的な揺ぎ無い強固な「信頼関係」があり
尊敬と感謝がある場合(例えば、親や恩師)は
時に「怖さ」を伴うくらいの迫力で伝えることはものすごい力になる。
揺ぎ無い「信頼関係」がないときには前者の落ち着いて場を持つ方法が
円滑に進むのかもしれない。(しかし高い能力が必要!)
これから高齢の人が亡くなって行き、私達が経済の主流になるならば
「うるさいなー」という反発心は邪魔。
そんな気持ちはキレイさっぱり捨ててしまって
先輩の思いや考えを聴き受け止め、自分の思考回路の選択肢に組み込み
それを活かして生きていく。そのほうが日本の未来にとって良い。
(その先輩の考えが、自己中なものであれば話は別。人のため、皆のため、そんなものであれば。)
多少偏っていたとしても、今の時代に合っていないと感じたとしても
自分自身の環境や想いを理解してくれていないと感じたとしても
とにかく聞いて理解する、その姿勢でいれば必ず若者は心の成長がある。
伝え手も大事だけど、聞き手の考え方や心構えはもっともっと重要。
大人と言われる年齢になった今
改めて自分自身の在り方や責任を分析し考えるべきだと心から思う。